2006年08月24日

あひるさんが並びました

私的な事ではあるが(元々ブログは私的な事を書くスペースであるが)、8/9を以って22歳の誕生日を迎えました。
「あひるさんが並びました」とはこの事です。
今まで実家に住み、大学進学を機に始めた一人暮らしの中で初めて迎えた誕生日。
誰かに祝ってもらった記憶など殆ど無いが、今年は同じアパートに住む年下の同級生に祝ってもらった。

「ケーキおごってやるからよ」

正直は話、この歳になって誰か祝ってもらいたいわけではなかった。
でも、恥ずかしさと同時に嬉しさがあった事も事実だった。

ありがとう。K君

たこ焼きとケーキ、スーパーの惣菜と既製品ではあったけどとても美味しかったよ。
それと色々な愚痴を聞いてくれてありがとう。



posted by いんくる at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月26日

KILL ME?

人を殺すのに凶器は要らない。
ただ言葉があればいい。
後は勝手に死んでくれる。
罪に問われる事はない。

言葉は人を傷つける。
傷つけられた人もまた誰かを傷つける。
報復に終わりは無い。

傷が癒えるには膨大な時間が掛かる。
それは何物にも代え難い。

冗談も時には誰かを傷付ける。
言葉は時に死よりも辛い制裁を加えるのである。
posted by いんくる at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月25日

変わろうと思う切欠が無ければ、変われない

負の反動とは凄いものである。
ここで言う負の反動とは「悔しさから来る現状打破の意識」の事だ。
まさにこの記事のタイトルの通り「変わろうと思う切欠が無ければ、変われない」

しかし、口で言うのは簡単だが、【変わる】と言うのは並大抵の事ではない。
特にぬるま湯の現状を抜け出す事は不可能に近い。
現状に納得した時点でゲームセットなのだ。

しかし、ここに「切欠」が登場したらどうなるだろう?

例えるならこういう事である。
目の前にとても高い跳び箱があるとしよう。
もちろん殆どの人は飛べない。
だが、「切欠」と言う名のスプリングをその前に置くと、全員が全員では無いが飛べてしまうのである。
スプリングが背中を押してくれる。

「押して欲しいのだ」
誰しも、言い出せない事や後一歩を踏み出せない事はある。
それに弱気になっているのである。
だから決して飛べないわけではない。飛ぼうとしないのである。
先程、私は「切欠」とはスプリングであると述べた。
しかし、羽にもなるのである。

ただし、それだけでは不十分である。
切欠による反動は長くは保たない。故に思い立ったらまず行動に移す事が重要である。
その後、退路を断てば望ましいと私は考える。

1%でも望みがあるなら粘れ。しかし1%も望みが無いのなら、そこに留まる時間がもったいない。
次のステップに踏み出す事が肝心なのである。
posted by いんくる at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月24日

何で他人の目を気にするの?

私が常々思っている事がある。
何故自らの行動の指針を他人基準にするのか・・・である。
「○○さんが行くなら私も行く」
「○○さんの服カッコいいなぁ・・・」
「周りの人に見られるからここでは・・・」

何故そんなに他人の目を気にしなくてはならないのか?
もちろん多少の配慮は必要であろう。しかしそこまで気にする事はないのではないか?

しかし勘違いしないで欲しい。別に私は「各人の個性を主張しろ」と言っているのではない。
ただ、ある程度は傍若無人でも構わないのではないだろうか?

あくまでも他人は他人。自分は自分である。
他人の目を気にし過ぎて第三者との関係にひびが入る事だってある。
それはどうしても避けたいものである。
posted by いんくる at 11:14| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月21日

変=/=変わる

普段アナタは「変」と言う言葉をどの様に使っているだろうか?
「彼は変な人だ」「アイツは変わっている」といった風に、恐らく言われた対象を自分以下の存在として見る用法が殆どではないだろうか?
現に辞書的な意味にも

【普通でないさま。怪しいさま。異常。奇妙。
「―な人」「彼は近頃どうも―だ」「気が―になる」】

とされる様に卑下する用法が載っている。

しかし、「変」に別の用法がある事も忘れて欲しくない。
「変わる」と言う意味である。
例えば、「彼は変わった」「彼は変わった趣味を持っている」とした場合、勿論悪い意味となる可能性も含んではいるが、それ以上に「良い意味での用法」が隠されている事にも注目してもらいたい。

「彼は変わった」・・・彼は昔とんでもない不良だったが、久しぶりに会ったらまじめな好青年になっていたのかもしれない。
「彼は変わった趣味を持っている」・・・・何か稀有な物に魅せられ、未開の分野を研究する第一人者になるかもしれない。

私は、「変」では無く「変わった」として皆さんに使って欲しいと思う。
そして今まで「変」と言われ続けて、虐げられて来た人達に、「変わって」欲しいと願って已まないのである。
posted by いんくる at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月18日

nothing exist

昨日、ある事でちょっとした議論となった。
おおまかに言ってしまえば、「無と有の関係性」である。
ある人は言った。
有は無から生まれ、無へと帰す。
だが、果たしてそうなのだろうか?
一般論で捉えると、無は0/有は1と置換する事が出来る。
この場合、0を1として捉える事は難しい(0=1では無いし、もしそうするなら0を階乗しなければらない)
先程も言ったが、これはあくまで一般論的見地による考え方である。

だが、私が疑いを投げかけるのには他に理由があるからだ。
一旦、結論とはかけはなれた論述になってしまうが勘弁していただきたい。

「そもそも無とは何なのか?」

「無」とはその名の通り、何も存在しない状態または空間の事を指し示している。
「何も存在しない」つまり、先程論述した「0の状態」である。
0はそれ単体では1になる事は出来ず、「階乗化」すると言う、外部的要因が必要となる。
しかしここで登場する「外部的要因」とは基本的に1の事象であり、0の空間内に於いて、その効力を発揮させる事は出来ない。

つまり私は何が言いたいのか。それはこういう事だ。
もしあなたが、私同様、「無とは何か」を考えたとしよう。
その時、あなたの頭の中に思い描いているのは、客観的な視点から認識した「無」なのである。つまり、実際の「無」にはノータッチで考えているという事なのだ。
そこまで言うなら....と実際の「無」で考えたらどうなるか。
それは滑稽以外の何物でもない。
先程も述べたが、実際の無について考えるとは、そこにタッチする事であり、それはイコール、外部的要因が介入したと成らざるを得ないからだ。
もしタッチ出来るのであれば(実際には不可能だが)、その時点で無ではなくなるのである。
当然ではあるが、代替の無しか思い浮かべる事しか出来ていないのは、触る事が出来ていない証拠であると言わざるを得ない。
そもそも、私達が論述出来るエリア内に実際の「無」は存在していないのだから。
有と無は不即不離であると言われるが、私達が知覚出来るのは、有と紛い物の無であり、「無→有→無」とする一連の流れは存在し得ないと私は考える。





posted by いんくる at 09:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月07日

怪我のその後

何とか痛みは退いてくれたけど、水気は厳禁。じゅくじゅくしちゃうからね。
かさぶた状になって内皮(皮膚の中の皮膚)が見えちゃってます・・・
日常生活に少し支障が出ちゃって嫌になるわぁ(・ω・)
posted by いんくる at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2006年07月05日

ブログはじめました

初日に難ですが、左手親指の先っぽを少し切断してしまいました。
昨夜、疲れて帰ってきて「ごはん作らなきゃ・・・」と包丁握ったらこの様です。
ザクッと感触があった後に血がダラーっと。
この文章書いてる途中でも止まってないかもしれない。
弱ったなぁ(・ω・)
posted by いんくる at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。